二年と少しで終わります。

アニメと声優とmtgとアイマスが大半。

1998年の宇多田ヒカルを読んでの感想

要約:セルフプロデュースと自分を表現するは違う

0,最初に愚痴

本当はこんなこと書くつもりじゃなかったんだけどなぁ。
余りにもだらだらと書いてしまい気づけば一ヶ月、このままだと自然消滅しようと思い予定とは違う記事を書くことを決めました。
僕は本の感想を書くのが苦手なのですが(たいていが面白かったですんでしまうため)、このブログは10割自分のためですしご容赦を。

1,なぜ読んだかの動機

1998年の宇多田ヒカルというタイトルが示す通り音楽、特に1998年にデビューし、そして爆発的な人気を得た4人のアーティスト ー宇多田ヒカル椎名林檎aiko、そして浜崎あゆみー について批評した本です。
いえ、正確に言えば3人と浜崎あゆみ1人ですが、それは後々。
音楽批評と言うと音楽好きにしか面白くないと思うかもしれませんが、僕自身音楽がよくわからない(4人の名前と曲がサビぐらいならわかる程度)のですが、それでも十分な説明はあります。
これは僕の持論ですが、音楽の文化、産業の動きは他の娯楽(アニメ、マンガといったいわゆるソフトパワーを持つもの)に通ずる、もしくは先駆けていると感じるので、自分が好きな娯楽分野と内容を比べてみるのが面白いと思います。
なので音楽批評ではなく新書の欄に平積みで置くべきだと思いますよ紀○国屋書店さん。

2,ざっと概要

この本で証明しようとしている問いは大きく分けて以下の二つ。
  • なぜ1998年という年にデビューしたアーティストは素晴らしい音楽を作り出せたのか、そして今も作り出しているのか
  • この4人はこれから何をしようとしているのか。
そしてこの二つを解き明かしたとき、これからの音楽シーンがどう変化するのかがわかる、というのがこの本の仕組みです。

3,関係ないけどぼんやり感じたこと

さて具体的にどのように論を進めるかまで書くのは無粋なので(そして書く気力もない)、自分が個人的に一番面白かったことを文脈からすっぱぬいて紹介を。
先程もあげた宇多田ヒカル椎名林檎aiko浜崎あゆみを分けた理由、それは本にも様々な理由が書かれてますが、一重にセルフプロデュースができたかどうかでしょう。 
各々の章で3人がいかに自分の曲を作ることができる環境だったかに触れている一方、浜崎あゆみは勝手にベストアルバムの発売日を宇多田ヒカルのアルバムに当てられるなど自分のやりたい活動ができなかったことが示されています。
とは言えセルフプロデュースが可能である3人は決して「自分勝手」に音楽活動をしている訳ではないと私は思うのです。
それは彼女たちは最初こそ「自分の」音楽を作っていましたが、そこからそれぞれ大きな変化を見せている(あるいは全く見せていない)からです。

aikoは決して自分の「素顔」が出てしまう場には現れません。
月日がたてば変わっていくのが人間の常にも関わらず、デビュー当時のまま全く変わることのない音楽を15年以上産み出し続けているのです。
本ではアーティストというより浜崎あゆみ的な芸能人のようだと評しています。
決して自身のイメージを傷つける行動は自分自身にも許していません。

椎名林檎ほど自分の「立ち位置」を自覚しているアーティストはいません。
彼女は常に自分という存在が社会に何を要求されているのかを理解し、それに従って行動し、大きな波を作ろうとしています。
アートとデザインの違いとして、「問題提起」するのがアート、「問題解決」するのがデザインと言われることがありますが、彼女はまさしく自分自身をデザインして社会的問題に逆襲しようとしています。
アーティストというよりデザイナーといった方が正しいのではないでしょうか。

そして宇多田ヒカル
3人の中で唯一アーティストとして「今の自分」を歌にしている彼女ですが、現在は休業中です。
そして休業直前に残した曲は自己というものが限りなく薄められたものでした。
今年の春から復帰する彼女は一体どんな「自分」を見せてくれるのでしょうか。
そして私たちはそれを評価することが、できるのでしょうか。

4,さらっとまとめ

本著は二つの問いからこれからの音楽シーンを予測したとき、宇多田ヒカルが復帰したら日本の音楽シーンが彼女に耐えきることができないのではないかと言う不安で幕を閉めます。
ですがそれとは別に、僕らは改めて「アーティスト」と呼ばれている音楽家がなにを伝えようとしているのか(それとも何も伝えようとしていないのか)を理解しなければならないのではないか、そうも感じるのです。