二年と少しで終わります。

アニメと声優とmtgとアイマスが大半。

君たちはどう生きるか感想※ネタバレあり

ミーハーなので公開初日一発目で鑑賞。

 

 

とにかく読み解くのが難解で不可解な作品だ。

特に異世界に突入する中〜終盤が難しく、ノイズとして無視する(つまり駄作として捨て置く)には余りにも大きく意図的に配置されている。

ましてや予告編やあらすじなどを公開しない形を取り、視聴中はストーリーを追いかけるので手一杯だった。

作品の感想は鑑賞者のパーソナルな部分や体調、環境、世相などに左右され、それ故に無数に存在しても良いと僕は思っているのだが、それはそれとして制作者宮崎駿がどういう意図を持って入れたのかがわからない。

だからこそこの作品は不可解なわけで、読み解くための補助線が必要である。

つまり何が言いたいかというと「なんのこっちゃわからん」である。

予告編を作ってるなら公開前に出してほしかったし、パンフレットもさっさと発売して欲しい。

流石に制作(製作)サイド側にいくらかの説明義務がある。

 

という所で下書きに埋もれていたのだが、ようやく明日発売されるとのことで。

はよ出せと言いつつも自分の生の意見、感想を出せるのは本日までというわけで。

宮崎駿という戦後日本アニメの支柱が、宮﨑と名前を変えて(戻して)まで作った作品に何かを求めずには居られないのも確かなのである。

主人公の心情と描写

本作にはなぜか惹き込まれるような魅力がある。

…というか、惹き込まれる部分つまり序盤パートが非常に匠に描かれている。

全てを溶かしつくさんとする炎の描写は熱まで感じ取れるほど荒々しく、主人公眞人たちのトランクに群がる老婆たちがおぞましく描かれているのは眞人の心情を反映させているからだろう。

主人公眞人もまた異例の主人公だった。

母の死に傷つき、父の再婚と継母の出産に傷つき、慣れぬ環境もあって自らの殻に閉じこもる。

表面上は取り繕うものの母との交流を拒み、家からも抜け出そうとする、明らかに現状から逃避だ。

一方そこから抜け出した後は老婆たちも、眞人を真に心配するようなどこか親しみのあるような描き方がされている。

今までのジブリの主人公とは異なる性格だからこそ描けるものを見事に描いており、演出や作画も(序盤に限って言えば)深く豊かなものだった。

大叔父様と眞人の対比、異世界の意味

序盤最大の山場、見せ場になるのが小説「君たちはどう生きるか」が登場したシーンだろう。

ここまで自らの内側に閉じこもっていた眞人が亡き母のメッセージとこの小説により外側へ転回する場面である。

眞人が一冊の本によって価値観が一変したが、そう考えると対極にとして大叔父様が配置されているのだろう。

異世界の創造主である大叔父は曰く「本の読みすぎで頭がおかしくなった」。

異世界がこれまでのセルフオマージュで構築されているのは、大叔父が作った世界は彼が触れてきた物語によって構築されていることを表現している、とも取れるのかもしれない。

ともかく自らの意思で異世界に飛び込んだ眞人とは違い大叔父は一つの世界に閉じこもってしまった。

個人にとって情報の価値は量の多少や新規性ではなく、「どう」やって得たのかが大事であると伝えたいのではないだろうか。

そして自らの価値観、世界を変えることこそが人にとって重要であり、それを経た上でどう行動するのかが重要なのではないか。

そう考えると「君たちはどう生きるか」に亡き母のメッセージを添え、眞人が旅の末過去の母に祝福され元の世界に戻ったことから、宮崎駿にとって「母の愛」というものが如何に大きいものかが見えてきそうではある。

奇妙なシンクロニシティ宮崎駿が見る現代

自らの殻に閉じこもっていた少年がそこから回復し、自らの殻に閉じこもっている肉親と相対する。

「シン・エヴァンゲリオン」っぽいという人が多い、僕もそう思う。

シンジの方も機械とコンクリートに囲まれ自己同一性をウジウジと考えるのではなく、第3村みたいな生物と土に囲まれながら自らが生きるために行動する姿は、千と千尋以前の宮崎駿の主人公たちと通ずるところがあるだろう。

他方眞人と母親たちの関係はどことなく「すずめの戸締まり」っぽさを感じた。

継母からの悪意をぶつけられるシーンは全く同様だ(悪意をぶつけられることでこれまでどれほど愛情を注がれていたのかに気づくところも含め)。

また過去の母が息子である眞人を見て希望を胸に元の世界に戻るシーンは過去のすずめが現在のすずめに祝福されて元の世界に戻るシーンと類似する部分が多い。

勿論違う点もある、自然の中で精神を回復したシンジと違い、眞人は一冊の本と異世界を巡ることで成長した。

鈴芽とも過去を祝福するのではなく、過去に祝福されるという点で違う。

だとしても、この奇妙な一致はとても興味深いことだと思う。

それは宮崎駿という巨匠から現在のクリエイターへの系譜として見ることもできる。

だがもう一つ、同時代の作品たちとの共通部分が存在したのは、宮崎駿自身が現在を見た故ではないか。

大叔父が異世界に引きこもり結果悪意を増幅させたのはエコーチェンバー現象を思い出したし、戦火に焼かれた世界に戻る際「友人を作る」と宣言した眞人の姿に、格差と断絶の問題が新たな世界大戦を作り出すという宮崎駿の危機感が映し出されているように見える。

僕たちは過去に祝福される程自身の悪意を克服しようとしているか。

その答えを自身の内だけに求めてはいないだろうか。

そして僕たちは過去との照応ではなく、現在の問題としてこの作品を捉えるべきではないか。

 

昔あるデザイナーの講演でアートは問題提起を行い、デザインは問題解決を行うという話を聞いた。

この作品は宮崎駿が作り出した芸術作品であり、その作品が何を訴えたいのかを読み解くのは難解である。

それでも提起した問題を読み解き解決するための行動を、観客たちは考え続けなければならないのだろう。