思うに、まず先に災害といった理不尽や不条理といった人にはどうすることもできない「罰」があり、そこに無理矢理原因を探し出した結果人は生まれながら「罪」を持つ生き物だと考えたのでしょう。
さて仏教やイスラム教、そしてキリスト教では最終的に罪は行いによって精算され、結果救われたり救われなかったりするわけですが果たして本当にそうでしょうか?
結果である「罪」が消えても原因である「罰」は消えるのでしょうか?
そしてもし消えないのなら、罪なき罰に対して私たちはどのように向き合うべきでしょうか?
何をもって映画の評価をするかは難しい。
ですが作品を視聴することで監督がメッセージが伝わるか否かで決めるのなら、残念ながら「日本を元気にしたい」というメッセージが込められたという「すずめの戸締まり」は駄作だったと言わざるを得ないでしょう。
尺的に日本全国をつぶさに巡るのは難しかったとは思いますが、やはり災害という一部の地域で共有される「ローカル」な体験を日本という「ナショナル」な体験として考えるのは無理がありました。
確かに東日本大震災は日本全体が被災したと言っていいとは思います。
しかしその程度は様々です。
例えば当時大阪に住んでいた僕は、地震災害の甘さを感じたりだとか後の原発問題やCM自粛など三次四次的な影響しか受けませんでした。
東京で被災し帰宅困難者となってしまった方は明日をもしれぬ不安感を抱えたでしょうし、すずめのようにあの津波を味わった方にとっては思い出してはいけない封印された記憶になったでしょう。
一つの現象によって起きた災害だとしても結局地域によって程度は様々であり、日本全国民が共有した「体験」とは程遠いものです。
どうしても地震をテーマにナショナルなものを表現したいのなら、例えば南海トラフなど何時か起きるかもしれない未来の災害に対する不安感にするべきで、そういう意味でこの作品はチョイスを間違えたというか伝えたいメッセージと物語の軸がズレている、そう言わざるを得ないのではないでしょうか。
映画『#すずめの戸締まり』
— 映画『すずめの戸締まり』公式 (@suzume_tojimari) 2022年10月22日
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では「すずめの戸締まり」は駄作なのか?僕はそうではない、宣伝文句の一つであった「新海誠の集大成」と言えるのではないのかと思います。
「君の名は。」以前の新海誠の作品のラストは別れという形で締め括られており、しかもそれをロマンチックな幻想ではなく空虚なものとして描いてきました。
その代表作が「秒速5センチメートル」のラストシーンではないでしょうか。
いつまでも過去を引きずる男である主人公の女々しさをこれでもかと表現し、容赦なく視聴者に見せつけるのは残酷であり、それこそが全ての作品に通ずる新海誠の作家性とも言えます。
それを踏まえて「君の名は。」のラストを見てみると、瀧くんが就活を失敗し続けているシーンはロマンチックな「何か」に溺れてしまっている男を表現しているシーンとしてこれまでの新海作品に通ずるところがあります。
しかし君の名は。がこれまでの作品とは違いそれを乗り越えることが出来たのは秒速では振り返れなかったすれ違いを振り返らせることができたことでしょう。
ヒーローとヒロインがそれぞれの道を歩むのではなく共に歩み続けるというのはその後の「天気の子」、そして「すずめの戸締まり」にも共通するところになります。
では、「すずめの戸締まり」も同様にハッピーエンドかと言えばそうでもない。
彼らは過去を精算し、笑顔で再会を果たしましたがそれは犠牲がなかったわけではありません。
映画のキーパーツであり、トリックスターでもあるのが要石であるダイジンとサダイジンです。
この辺りは敢えて視聴者に考える形で含みを持たせているので明確な答えはないのでしょうが、小と大、白と黒といったように彼らは対称的であり、ダイジンの性格が子供らしい純粋さ(と残酷さ)が強調されていた所から、彼らは未来と過去の象徴でもあるように見えます。
そんなダイジンを犠牲にしながらも、すずめはみみずを封印し直した。
しかしこのラストは根本的な解決とは言えないでしょう。
過去が示す通り、要石で封印し直されたからといって二度と日本に地震が起きない、ということは有り得ない。
結局のところ、すずめの思い虚しくいずれ災害は起きる。
彼女たちが行ったことは未来へ問題を棚上げしたに過ぎず、その象徴がダイジンだった。
過去を糧とし未来を潰す、それを自覚しながらなお現在を生きる、草太が要石で封印した際に発した言葉はそういう意味であり、それを言葉にさせたのは他でもないすずめです。
喪ったものを背負いながら、懸命に現在を生きる、これは「天気の子」のラストシーンと似通っています。
世界の修復ではなく陽菜を選び、その結果東京は止まぬ雨によって沈んでいってしまった。
帆高は優しい大人の嘘に騙されることもできたはずです。
それでも世界を変えてしまったという「罪」を背負うことを決意したのは、他でもない陽菜が変えてしまった世界に対して祈り、罪に対する償いをしているからです。
二人とも笑顔でいるから騙されそうになるのですが、草太とすずめも人々の思い出といった喪ったものを弔いながらいつか訪れるであろう決定的な終わりを待つのでしょう。
美しくも残酷なラストと言えるでしょう、彼女らはその労務から逃げ出すことは出来ず罰として一生行い続けなくてはならないのですから。
新海誠本いわく、「君の名は。」「天気の子」を生み出すことでようやく東日本大震災をテーマにした作品を生み出すことができた。
全くその通りだと思います。
「君の名は。」が無ければヒーローとヒロインは共に歩むことはできず、「天気の子」が無ければ嘘に騙され、背負わなければいけないものに気づくことはできなかったでしょう。
すずめと草太の罰はダイジンを犠牲にしたことによる罪によって生じたものでしょうか?
それを罪とするのはあまりにも自分本位すぎると僕は思います。
なぜなら地震といった現象は誰のせいでもなく発生するものであり、それを端に派生した事象も、ある特定の誰かのせいによって起きたものではありません。
勿論誰かの決断があったからではあるのですが、東京で草太を要石としたすずめのように不特定多数の誰かのための行動であり、それを特定の罪とし罰とするのはあまりにも自分勝手ではないでしょうか。
それでも彼女らは弔いという罰を受けなくてはならず、そしていつか報いを受けなくてはならない。
冒頭で話した通り「罰」があって「罪」があり、水害雪害そして南海トラフといった地震といった「罰」を、僕ら自身は隣に感じながら今日を生きている。
そういう点では僕らもすずめや草太と変わりなく罰を背負い続けているのかもしれません。
だからこそラストシーンが笑顔で締め括られたのは「君の名は。」「天気の子」を越えた先として大きな意味を持った。
罰の中でも悲しみしか感じないほど人間というのは感傷的な生き物ではなく、それどころか好きな人と一緒にいれるなどといった図太さを持ち合わせている。
ロマンもなく、様々なものを喪いながらも、それでも笑顔で笑うことができる、それが人の逞しさであると教えてくれる作品でした。