先日恩師の葬式がありリアルタイムでは参加できなかったものの、なんとオンライン配信をしておりアーカイブにも対応していたため視聴していました。
良い時代になったなぁと思う一方、やっぱりライブで参加したいと思う気持ちもあったり。
とりわけ恩師は『ライブ体験』について一生を費やして考えている人だったので取り分け感じるのかもしれません。
授業や授業外での雑談をしている中で本当に色々なことを学んだのですが、その中でとりわけ印象に残っているのはテオドール.W.アドルノの話です。
フランクフルト学派、そして音楽批評者として有名な彼ですが、授業では彼のポピュラー音楽批判の部分に焦点を当てられました。
彼は当時のポピュラー音楽の構成がパターン化されていること、同時に画一化されたものと聴衆が気づかないようにわずかな差異を作りだしていることを指摘し、それを規格化と疑似個性化と批判しました。
アドルノは徹底的にポピュラー音楽とそれを楽しむ人をディスったため一昔前のポピュラー音楽研究家はまずアドルノを批判することから始まっていたようですが、恩師曰くアドルノをもう一度読み直す時期にあると主張していました。
理由として、
の2つを上げていました。
ですが音楽にはそこまで興味がない僕にとって2番の理由は社会現象としては興味深いもののそこまで魅力を感じるものはなく、1番についてはマルクスを引用した主張も含め当時読んでいた大塚英志の『感情化する社会』とリンクしてたのもあって授業が終わった後も熱心に考えていた記憶があります。
アドルノはポピュラー音楽の特徴によって音楽が差異や声の良さだけを重視され、それによって音楽が物神化され所有されるようになったと主張します。
またポピュラー音楽が人々の感情を容器として使われ、もしかしたらあり得たかもしれない、しかし決して現実ではないロマンティックな幻へ逃避するために使われていると痛烈に批判します。
しかし恩師は、聴衆たちが感情の容器としての音楽をもっと能動的に使っている、つまり音楽によって自身の感情を管理していると言っていました。
アドルノはあくまで労働の苦しみを癒すためと音楽に込められる感情を画一的なものとして捉えてる一方、音楽に何を感じるのかは大筋はあるものの個々人が何時何処で出会ったかによって変わってきますし、スポーツ選手が競技前に気分を高揚するために音楽を聴くなど多様な場面および感情を管理するために音楽が使われています。
音楽にどのような感情を込めるのかもしくは込められるのか、恩師はそこに聴衆の、ひいては音楽の可能性の一つを見ていたのかもしれません。
そんなことを思いながら、当時のノートを開いていたら「退化した聴き方は、ちょっとしたきっかけで、憤怒に転じかねない」(Adorno 1938=1998:74)という一文が書かれていました。
確かその時ファンマーケティングが持てはやされてた時で、それに対して僕は「ファンが転じてアンチになって大変なことになるしなー」とか考えてた気がします。
ふと今日のツイッターやはてなを見れば誰も彼もが何かに対して怒ってます。
それが正当なものなのかは置いといて、アドルノから言わせればあらゆる場所で感情が管理する必要のある現代社会では当たり前なのかもしれません。
逆にどのように感情を表すのかはあくまで一人一人の「手にある」のではないでしょうか。
音楽の可能性がどのように広がるのか。
講義を「葬式」として呼んだ恩師ですが、是非その可能性をもっと見せてもらえればと思いました。