ある漫画が流行ったとき「理解度が低い感想しかない」ことに悩む人は意外といるそうです。
タコピーやさよなら絵梨などTLでものすごく話題になる作品が出ると、自分が読んだ時に理解力の低さを目の当たりにすることになるという話 - Togetter
「理解度の高い低いなんて簡単に決められないし、人の気持ちなんてモノじゃないんだから他人の感想で価値が決まるわけないじゃん」と一蹴することは簡単ですし、「深読みしなければならない、と読み方を狭めてしまう」と警鐘を鳴らすことも簡単です。
しかしそう簡単に言えない理由もいくつか思い当たります。
その一つがツイッターです。
ツイートがTLに「陳列」され、RTと良いねがまるで値札のように数字で計れる価値を定めていく。
確かに人の気持ちは流通では語れませんが、一度世に放ってしまえば気持ちは感想、意見へと変わり、どこにでもある陳腐な主張か否かのジャッジに晒されてしまう。
こうしたことが日常的に行われ、また行っているからこそ、知らず知らずのうちに気持ちを感想として変換し、他者との比較を行ってしまう。
そしてインターネットに投稿できるかどうかで自身の気持ちの価値を決めてしまっているのかもしれません。
……これは今までのSNS時代の批判と繋がりつつも、大きく異なる動きではないでしょうか。
例えば上記など、現在のソーシャルネットワークサービスいくつかの問題点が指摘されています。
例えば、
①民主主義の拡大を理由に権力者の秘匿領域が拡大し、監視/制御が行き届きやすい環境が構築される
②フォロワー数などと言った数の論理が重要とされ、時には真/偽といったことよりも優先されてしまう
③我々のインターネット上の発言、投稿や購入データなどはビックデータとしてビジネスに使用され、それを保持するGAFAが頂点とする権力構造が構築され、格差が拡大する
④ソーシャルネットワークの拡大により「情動的ネットワーク」が構築され、ポピュリズムが代表するような情動中心の政治が中心になっている
と、大体この辺りが問題視されています。
今回の「感想」で思った僕の意見は、特に②の問題点の具体例と考えることもできます。
RTや良いねと言った「数」として比較できる価値で感想の良しあしを決めているわけですから。
しかし一方で④の反例でもあります。
ここで言われる情動的ネットワークとは刺激に対する反応で構築されたネットワークというものであり、誰かの反応に反射的に不特定多数が「草」と打つような行為のことを指します。
これに対して今回の感想は「作品」という刺激に対して「感想」という反応を返す、のではなく他人の感想と比較し本当に投稿していいのかを吟味するという行為が挟まります。
これはつまり「情動」ではなく、「思考」する場が構築されているということではないでしょうか。
④については特に問題視する人が多いポイントでした。
刺激に対する反応は予想しやすく、ゆえに制御がしやすく(①と繋がる)、情動をより多く集める作品、発現のみが優先されるネットワークを構築し(②とつながり)、より手軽に、より早く行われる情動はより多くの情報を生み出しビッグデータとして回収される(③とつながる)からです。
そのため情動的ネットワークとSNS時代の問題点は不可分なものとして考えられることが多かったのですが、しかし今回のケースは「情動」と「思考」が同じサービス下で共存することが可能であることを示唆しているようにも見えます。
ソーシャルネットワーク上にハーバマスが提唱する「公共圏」を作り出すことは難しい、というのが現在の主流ですがそこに投げうたれた石として、気持ちと感想の動きを追いかけていく必要があると考えています。